恋は盲目というけれど、わたしには到底あてはまりそうになかった。だって、いつももう1人のわたしが邪魔をする。そう、いつだってわたしの耳元で囁くんだ、わたしにしか聞こえない、とてもとても小さな声で。 (アンタさ、本気で跡部が好きとか思ってんの?) 氷のような響きのその言葉は、紛れもなくわたし自身から投げ掛けられたものだ。わたしは自分から発せられたそれを幾度となく反芻して身体を縮こませるのが常なのだ。要は、いつももう1人のわたしというのは、身の程を知れと言っているのだった。そしてそれはもっともなことなのだった。 * * * 部室裏を通りかかったときそれは前触れもなく起こった。
乾いた音のする方に目を向けるとそこには跡部と女の人が居た。ああ、修羅場なんだなぁ。わたしは跡部の少し赤みがかった右頬と彼女の震える唇を見て全てを察し、気配を殺して元来た道を引き返す。グラウンドへ通じる道へ出るときに何気なく振り返ると、その距離は相当なものだったが、それでも、しっかりと跡部と目が合った。どうやら気づかれたらしい。少し怒っているようだった。でも跡部はいつだってやや険しい顔をしてるわけだから、別にどうってことないか、と思ってわたしは深呼吸した。そうすることで、タイミングの悪い通行人からテニス部のマネージャーに戻ることができたのだった。 * * * 「、部活おわったらお前残っとけ」 跡部はわたしの目を見ることもしないで、一方的にそう言い放つと、例の彼女と折りあいがついたのか、コートへ戻っていった。 別に、とびきり優しくされたわけではない。むしろ冷たくあしらわれている。なのになぜこんなにも心惹かれるのだろうか。しかも、これはなにもわたしだけに限ったことではない。うーん、あんなにも高飛車で高慢ちきなのに、集団から孤立しないのは、やっぱり彼が不思議な引力をもってるからなのか。(逆らえっこない。)
「こっち来い」 部活が終わるとわたしは跡部に言われるままにもう誰も残っていない部室へ入った。当然のことながら2人っきりだ。嫌な汗が首筋を伝った。そしてそれは夕暮れの冷たい風に吹かれてわたしの身体を丸っきり死人のように冷やしたのだった。 「お前、さっき俺がぶたれるとこ見てたろ」 ・・・開口一番、これだ。 「や、通りがかっただけだし」 「でも見ただろ」 「う、 わかんないよ」 「わかんないわけねーだろ」 「まあそうなんだけどさ」 「誰にも言うんじゃねーぞ」 「わかってるよ」 わたしの心ひかれる人っていうのは、わたしの目の前にいるこの人はなんて遠いところにいるのだろう、今わたしはどうしようもない切なさに呆然として、唇を噛みしめることさえできない。ああ、わたしの心を覆う喪失感。 「てゆーかさ、お前、俺のこと好きだろ、あん?」 ---わざわざ跡部の顔を見る必要なんて、無い。わたしは自分の足元を見てるだけなのに、跡部が口角を上げて笑う様子が手に取るようにわかった。見てないのに、鮮明に脳裏に浮かぶ。勝手に。 「そんなことない、」 「は、バレバレだっつってんだよ」 「違うんだってば あ」 跡部に身体を引き寄せられて思わず語尾が上ずる。 「だってお前すっげー顔赤くなってんじゃん、このくらいで。」
からかうような口調にわたしの頬は、ますます赤くなってゆく。声を張りあげて身をよじったけど無駄みたいだった。だって、跡部の目は、とても楽しそうに輝いている。 * * * そうしてしばらくわたしは跡部の腕のなかで時間を過ごした。奇妙な沈黙がわたし達を包んでいる。でも依然として異常なほどの緊張感がわたしの中にあった。優雅な顔に全然そぐわない跡部の腕はわたしの身体だけでなく心までも容赦なく締めつける。 「わたしが好きなのは 跡部じゃない」 わたしが搾り出すように呟いたら、腰に回されていた跡部の腕に今まで以上に力が入った。本能で即座に(やばい)と思ったけどもうその時には既に手遅れだった。跡部はわたしの冷たい冷たい首筋に熱い唇をおしあてた。そして、びく、と震えたわたしをあざ笑った。 「つまんねーんだよ、お前なんか」
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